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概要
多くの企業がインベスター・リレーションズ(IR)の重要性を理解しているにもかかわらず、組織的に投資家からのフィードバックを収集・分析し、経営裁定に結び付けている企業は極めて少ないことが、ベインの調査により明らかとなっています。本号では、創業100年のカメラメーカー、ニコンが戦略的IRマネジメントの導入をきっかけに全社的な構造改革を遂げた具体的な事例を紹介するとともに、日本企業が、インベスター・リレーションズ(IR)を経営に活かす重要性について論じています。
約2年前のニコンは、株価が解散価値を下回るという経営不振に喘いでいた。しかし、戦略的IRマネジメントの導入を機に全社的な構造改革を断行。約1年で株価が35%上昇するという成果につながった。
多くの企業は、インベスター・リレーションズ(IR)を一方通行の活動ととらえている。通常は自社の内在価値を伝えることに集中し、形式的な四半期/年間の業績報告に力を注ぐ。実際に、意思決定、戦略、業績の改善を目指す双方向の対話の一環として、投資家からインプットを受けるというやり方を実践している企業は驚くほど少ない。
ベイン・アンド・カンパニーが最近、大手グローバル企業の幹部51人を対象にIRマネジメントの手法を調査したところ、彼らの大半が少なくとも月に1回投資家とコミュニケーションの機会を持ち、投資家をグループ分けしてコミュニケーションの力点を変えていた。しかし、IRと戦略部門を連携させて、投資家からのフィードバックを最大限に生かすための正式な仕組みを導入していたのは、わずか3社だった(本記事末の補足説明1を参照)。多くの企業が、物言う投資家の台頭や、デジタル化の破壊的進展の中で企業幹部が直面する不確実性に機敏に対応しているこの時代にもかかわらず、これは意外な状況だ。投資家は、資本を提供してくれるだけでなく、経営判断を阻害する様々なバイアス――自分に都合の悪い情報が見えなくなってしまう思い込みバイアスや、論理的な意思決定を妨げる感情バイアス、自信過剰など――を取り除いてくれる貴重な戦略的リソースとして活用することができる。なぜなら投資家は、戦略や重要な仮説に対して、より客観的な立場で反対意見を出すことができるからだ(図表1)。
100年企業ニコンが迎えた存亡の危機
世界有数の長寿ブランドの1つとも言えるニコン。しかし同社は2016年に存亡の危機に陥っていた。100年の歴史を持ち、高級カメラの代名詞と見なされている同社だが、スマートフォンの普及により中核事業の形勢は悪くなる一方だった。2012年をピークとして売上は低迷、利益は減少し、株価は解散価値を下回る水準まで落ち込んだ。そんな時期に新たにCFOに就任したのが、岡昌志氏である。
岡氏は長年金融業界で経験を積み、三菱UFJ銀行傘下の米ユニオンバンクのCEOとして米州事業の改革と再編で重要な役割を担った人物である。キャリアを通じてコミュニケーションを重視してきた同氏は、ユニオンバンクの取締役会(主に独立社外取締役で構成されている)や米国の規制当局との間にオープンで透明性のある関係を築き、ユニオンバンクの復活と変革につながる戦略的コミュニケーションを実践した。同氏はニコンでも同じような手法で変革を実現できると考えた。岡氏は規制当局と密に連携する代わりに、今回はそれとはまったく別の、しかも同じくらい意外性のある相手、すなわち投資家を活用するという大胆な手段を講じた。投資家なら、業界情報に精通した信頼性の高い情報源として、ニコンの事業の何がまずいのか、どのような変革を実施すべきかについて貴重な助言を与えてくれるはずだというのが同氏の読みだった。
大口の機関投資家には深い洞察力、独自の分析、競合他社との接点があり、そして何よりも利益にしっかりフォーカスした判断力を持っている。そこで、ニコンの現在および過去の有力な大口投資家の意見を聞く機会を設け、ニコン株を購入、保持、売却した理由に耳を傾けた。そしてニコンの経営をどう見ているか、という本質的な点についても尋ねた。すると、経営陣にとっては衝撃的な答えが返ってきた。例えば、ニコンは不振に終わった四半期の業績報告書に、「市場の縮小傾向は間もなく底を打ち、当社の利益は改善すると考える」という短いコメントを添えていた。まるで数十年前のコダックを思わせるような予測である。そこで、過去に同社の大口投資家だった人物にフィードバックを求めたところ、この投資家は「ニコン経営陣の言う長期的な見通しは妄想だ」と述べ、「こういう発言を聞くたびに、ニコンの経営戦略がいかに後手に回っていて、業界トレンドを的確に把握できていないかに愕然とする」と続けた。
このできごとが、劇的な改善に向けた大きな第一歩となった。多くの企業では、IRのアプローチはマーケティングの売り込みに似ていて、実際にPR部門がこの機能を果たすことが多い。ところがニコンは、主だった投資家を定期的に訪問し、あたかも企業を買収する際のデュー・ディリジェンスのような面談を実施することにより、IRの在り方を一新することができると考えた。
そこで同社は、ターゲットとする投資家のフィードバックを集め、それを確実に経営幹部に伝えて戦略とアクションにつなげるための計画的なプロセスを作り上げた(図表2)。IRをPR部門の一業務として扱うのではなく、経営トップのアジェンダに昇華させる必要があると判断したのだ。
投資家からのフィードバックは、ニコンの技術畑で40年のキャリアがある社長の牛田一雄氏が投資家との対話について真剣に再考する必要性を痛感する一助となった。また、ニコンが最も優先して対処すべき経営課題は何かを特定することにも役立った。
ニコンが取った最初の一歩は、ニコンの投資家を、投資家ポートフォリオにおける総合的な魅力度に基づいて分類することだった。企業はしばしば、「自社」が投資家にとってどれほど魅力的かということは気にかけるが、ある「投資家」が自社の株主ポートフォリオの中でどれほど有益かについては意外なほど無頓着だ。ニコンは、同業他社の投資家のベンチマーク比較を行ったところ、長期的な視点で投資を行うグロース系の株主比率が高いライバル会社の方が、3年間の株主総利回りが高くなる傾向があることが分かった(図表3)。適切な投資家基盤には、株価を改善し、ボラティリティを抑え、貴重なフィードバックをもたらすメリットがあるのだ。
ニコンは投資家の意図を理解するために彼らの行動(買いと売りのデータ)を分析し、投資期間(および投資額)、重視する業界(および業界に対する理解)、投資の多様性に基づいて投資家を分類した。その結果、あるグループの投資家は、短期的なコスト削減策に主たる関心を持っていることが判明した。別のグループの投資家は、より長期的な構造改革と成長に関心を持っていた。そこでニコンは、現状の株主構成では比率が低い、長期的な視点を持った投資家を引きつけたいと考え、彼らを重視するIR戦略を取るようになった(図表4)。
投資家を分類する第二のメリットは、適切な投資家ポートフォリオを構築・維持することにつながる、ターゲットを絞ったコミュニケーションの場を設定できることである。自社の戦略フェーズごとに最適な投資家を特定し、そのフェーズに入る前に、その投資家に働きかけて投資意欲を持たせることが最善策だ。企業はすべての投資家に同じ資料を提供しなければならないが、例えば年金基金向けにはキャッシュフローの安定性を、成長重視の投資家向けには配当率を強調するといった具合に、特定の投資家グループにとって最も重要な意味を持った要素を際立たせることはできる。
ニコンの場合、価値重視の投資家とのコミュニケーションでは、コスト最適化の機会とバランスシート管理にフォーカスを当て、成長重視の投資家とのコミュニケーションでは長期的な構造改革にフォーカスを当てた。一般的に、企業の最も重要な投資家は、企業が「what」――どのような業績になる見通しか――を説明しても、「how」――どのようにそれを達成するつもりか――についての信頼に足る説明がなければ納得しないものだ。
投資家を分類する第三のメリットは、最後にニコンの運命を変えることになる。なぜなら、貴重なフィードバックを提供してくれる最も重要な投資家を、システマティックに見つけ出せるようになったからだ。
実際に、ニコンは過去の投資家にインタビューを行ない、不信感の根拠、株を購入した理由と売却した理由を特定しようとした。過去の有力な大口機関投資家の1人に、どのような条件ならニコン株を再購入するかと聞いたところ、こんな答えが返ってきた。
「ニコンはもっと大胆な方針を打ち出して、もうすぐ変化が起こるという希望を投資家に与える必要がある。ニコン製品の多くが市場の進化から取り残されていることを考えると、この山を登るのは大変なことだ。」
このような投資家のセンチメントを実際の行動につなげるために、ニコンは定期的に投資家から情報を集めて経営陣と取締役会メンバーに伝え、それを踏まえた経営陣の考え方を投資家と――そして恐らくもっと大切なのは、過去の重要な投資家と――共有するというフィードバックのサイクルを構築した。
投資家インタビューの第一弾で得られた遠慮や偏見のない見解は、変革を加速させる上での全社的な危機感の醸成につながった。2015年に発表したニコンの3カ年中期経営計画は、中核事業が衰退していたにもかかわらず、市場を楽観し、全事業が成長するという見通しを立てていた。実際、ニコンの半導体装置事業は何年も赤字が続き、映像製品市場は予想を上回るペースで縮小していたにもかかわらずだ。
ニコンは投資家のフィードバックによって、同社の利益創出力を改善すると同時に、経営のDNAをも書き換えるような大胆な構造改革プランが必要だと痛感したのである。
投資家のインプットから直接的な影響を受けて作成された構造改革プランは、480億円の一時費用を必要とするものの、年間200億円のコストセービングが得られるという内容だった。同プランでは、ニコンの主要事業である半導体装置事業と映像事業の抜本改革に加え、R&D、営業、生産をグローバル規模で最適化して、固定資産やSKUの削減に加え、高付加価値製品への集中によって収益性を改善することを目指した。
さらに本社スタッフ20%を配置転換するなど、職務や機能の見直しによる本社機構のスリム化も打ち出した。その他の施策として、経営幹部の月例報酬の減額のほか、賞与や現行の3カ年計画とリンクした業績連動型株式報酬の返上、取締役と執行役員の人数削減も盛り込んだ。同社はこれと並行して、資源配分を最適化するために、事業ポートフォリオにおける各事業――半導体装置や映像事業に限らない――の役割を再定義して、ポートフォリオ経営への転換を図ることにした。また自己資本利益率(ROE)や投下資本利益率(ROIC)といった指標に基づき、株主価値に連動する指標を導入することにした。経営陣の任命における透明性の改善や、取締役会の多様性の向上、経営幹部の業績の効果的な評価システムの導入を通したガバナンス体制の強化も盛り込んだ。
加えてニコンは、30カ月の構造改革プログラムを完了するまで現行の3カ年計画を撤回するという、まれに見る劇的な判断を下した。成長のための施策を模索するのは、この構造改革が終わってからということだ。構造改革プランを発表したニコンは、もう一度、現在と過去の投資家にコンタクトした。今回の目的は、同社の構造改革施策に対する意見を得ることである。ニコンのIRチームもこれに加わり、岡氏自ら主要投資家30社を訪問し「当社は映像製品市場が今後も縮小していくことを認識し、今後は高付加価値製品に注力して固定費を削減していく」などのメッセージを伝えた。
これについて、ほとんどの投資家からは支持が得られたものの、引き続き個々のコスト削減策のロジックを明確に説明する必要があることも指摘された。ある投資家は、「私は何度も変革を目にしてきたが、市場が10%のペースで縮小しているとしたら、利益を確保するにはそれを上回るコスト削減が不可欠だ。ニコンには、さらなるコスト削減の秘策があるはずだ」と述べた。ニコンはこのメッセージを真摯に受け止めた。
6カ月後、ニコンの将来の見通しは明るさを増していた。同社は投資家のフィードバックを盛り込んだ戦略に基づいて、10%の市場収縮を上回るペースでコスト削減を進めていた。そしてもう一度、投資家との対話を持つタイミングがやって来た。結果はニコンの運命と同じように好転していた。
ニコンの経営陣が「妄想」していると評した過去の大口投資家が、がらりと態度を変えた。「あなた方がこれまでに見せた大胆な行動にとても感銘を受けている。今後の進展を見守るのが楽しみだ。ニコンは5年後にはまったく違う会社に、少なくともはるかに高収益体質の会社に変貌しているだろう。」
適切な投資家にターゲットを絞ってアピールし、彼らの力を借りて隠れた価値を引き出すというニコンのアプローチは、大きな効果をもたらした。構造改革によって、慢性的に赤字だった同社の半導体装置事業は黒字化を遂げ、映像事業は中国工場閉鎖等の追加施策の実施もあり収益構造が強固になった。そして、この構造改革が同社の経営のDNAを確実に強化していると投資家を納得させることにも成功した。実際に、構造改革を開始してから1年で、同社の株価は35%も上昇した。さらに、おそらく長期的な意味でもっと画期的なのは、同社におけるIRの重要性が飛躍的に向上したことである。かつてルーチンワークと見なされていた業務が、最も戦略的意味合いの高い重要業務と認識されるようになったのだ。構造改革に成功したニコンは、改めて投資家と積極的に対話をしている。かつてはなんとか投資家に気に入られようと必死になっていた同社だが、今は次の100年に向けた航海の針路を描くために、彼らの力を最大限に活用しているのだ。昨年、岡氏個人は延べ145社、ニコンのIRチーム全体で延べ500社以上の投資家と面談を行っている。
補足説明1: IRマネジメントに関するグローバル企業51社のサーベイ
企業のIRマネジメントの現状を把握するために、ベイン・アンド・カンパニーは南北アメリカ、欧州、アジアの各種業界の財務およびIR担当幹部51人を調査した。彼らの回答にはIRマネジメントの重要性の高まりが表れている。例えば彼らの30%が物言う投資家に影響を受けていると答え、半数以上がIRマネジメントを株価を上げる手段の1つと見なしている。
前述にもある通り、IRマネジメント部門は一般的に月に1度のペースで投資家とコミュニケーションを取り、多くの場合、重要な投資家とは一対一の会合を設けている。しかし、投資家のフィードバックを最大限に生かして戦略と十分に連携させる正式な仕組みを実践している企業は少ない。例えば、投資家のフィードバックを戦略計画と結びつけ、その後のアクションについて投資家に伝えていると答えた回答者はわずか6%だった。